Wikipediaが論拠として認められない理由は、「誰でも編集できる」がゆえの信憑性の危うさ、
つまり「参入障壁が低ければ平均品質も下がる」という「抵抗と品質の正比例法則」にあるのだが、
質問サイトはなお性質が悪い。
何故なら、
「回答者は言いたい放題で、」「評価は質問者の独断で行われるが、」
「それが生の意見として尊重される」からだ。
回答は自由に行え、他人による編集を受けない。つまい言いたい放題。
その評価は、中立で博識で判断能力の高い第三者ではなく、「知らなかった」質問者自身が行う。質問者を咎める厳しい回答がベストアンサーに選ばれる事はない。極端な話、馴れ合いになる。
→つまり、構造上、そこには改善や向上の意思(もしくはインセンティブ)がないのだ。
とても「知の共有」とするには至らない。
しかし、それが尊重される。
「誰かが知りたい事」は「他の誰かが知りたい事かもしれない」からだ。
このまま質問サイトや利用者数が増え続け、それらが尊重されるなら、検索結果はノイズで溢れ返ることになる。
情報収集のための時間が、「以前にも同様の質問がありますよ」や「その質問では分かりません」や「『ご教授』ではなく『ご教示』です」などのやりとりに目を通すことで潰れる状態が、人類文明の英知の結集ということになる。
もしくは、自由と権利をいたずらに追求した結果であろう。
Wikipediaは、他者による進路妨害もあるが、自他による進路修正が可能だ。
何よりルールがあり、議論ができ、削除も可能である。
→そこには改善・向上の意思がある。ならば、Wikipediaの方が断然マシだ。